昭和44年01月29日 夜の御理解
御祈念御理解を頂く時からですね、本当に娘が悪かというごたる風にこう思うとった。けれども確かにね、信心をさせて頂く者は、ほんとに例えば子供から粗末に扱われると言う、扱われる親の方が私は先ず悪いと思わにゃいけんですね。そうせにゃ信心があのう信心の教えが生きて来ません。それからあのう段々そのうおばちゃんと始め遠慮しとなさいましたけれども、段々お神酒を好きな人をお爺ちゃんにあがって、ほうとしてきなさってから、それからお茶どんかけてから食べてんしよりましたら。
ほらほらというそげんあたし持って来てから言われれるとですもん。先生分かりましたぁ、やっぱ私が悪るかちゅ言われる、人間ちゅうものは心が明かるうなって、にこやかになってくると分かるんです。自分の心が暗いから、自分が悪か事が分からん。そげんとのそのういよいよ明るくにこやかにという事が、どんなに有り難い事かというその事からだけでも分りますね。そこんにき本気で自分な明かるうにこやかにちゅうときなら、普通だったらもう親子の事やらそげな事問題じゃやなくて。
全然問題じゃなかったんじゃないかとこう思います。ところがそのお神酒頂いて歌ども歌よる内に心がほぐれて来てから、朝起きて来たらあたどうて、先生やっぱ今日私が悪かったようであります。帰って来たらのやっぱその言われた方が悪かったちゃろがのと言うて、まぁにぎあわせて頂いたんですけれどもね。信心なもうこれは根本的なとこうね、例えばどうしてあの人から自分はこんなにあのう、辛い事を思わせられたりさせられたりするんだろうかと。
言うのじゃなくてから、結局自分自身の内容にそういうものを持っておる。そこでそこんところを先ず分からして頂くために、いよいよ本気でにこやかにねそして明るくという事に焦点を置いて、明るいにこやかなもので考えるとです、ほんなことあれじゃなかったこれじゃなかった、自分自身のこの中にあったという事が分かるのです。そこから私はほか言うべき事だと思うんですね
どうぞ。